「隋唐演義~集いし46人の英雄と滅びゆく帝国~」
楊広役 フー・ダーロン(富大龍)インタビュー
──日本では「三国演義」の人気が高い一方で、「隋唐演義」はあまり知られていません。中国ではなぜ「隋唐演義」が人気なのでしょうか?
そうですね、「隋唐演義」については日本の視聴者の方はあまり知らないかもしれませんね。「三国演義」は白話小説(注:口語体で書かれた文学)です。「三国演義」の時代、その前後の時代は、中国の古典文学が始まった時代でした。日本文学で言うなら「源氏物語」のように、口語で書かれた小説が登場した時代です。そして、その時代には中国四大古典小説と呼ばれる「三国演義」、日本人もよく知っている「西遊記」、そして、「紅楼夢」が書かれました(注:言い忘れていますが、最後のひとつは「水滸伝」)。そして、この四大古典小説のほかにもたくさんの人気作品がありましたが、「隋唐演義」はその中のひとつで、庶民の間で大変に流行した作品だったのです。
──狡猾で野心家の楊広は、中国人なら誰もが知っているキャラクターだと思うのですが、演じるにあたってどのような悪役にしたいと考えましたか?
「隋唐演義」は“演義”(注:歴史を口語で分かりやすく物語った作品)ですから、正統な歴史を描いた作品というわけではありません。言うなれば、歴史の“神話劇”といったものです。神話化した、漫画化した歴史ですね。様式化と言ってもいいかもしれません。つまり、日本の漫画のように、フィクションを加えて物語を誇張して描いているのです。実は、歴史的に見ると、皇帝・楊広はその功績も大きく、過ちも多くありましたが、一概に悪人、敵役だとは言えない人物です。しかし、この物語においては、英雄たちも大勢登場するので、彼らを際立たせるために、私の演じる楊広がダークサイドを担っています。それなので、私は楊広の闇の部分を強調し、さらにそのキャラクターも少し誇張したものにしようと考えました。もともと楊広はただの悪人で好色かつ愚かな人物に描かれていました。でも、私はこのキャラクターに史実から知ることができた長所を加えたのです。調べたところによれば、彼は非常に才能豊かで、琴棋書画(注:文人の嗜みとされた琴、碁、書、画の四芸)に優れ、詩を詠む才もありました。ですから、ドラマの中でも彼が古琴を弾いたり、書道をしたりしている姿を見せることにしました。もともとの物語にはこうした設定はなく、これらはすべて私が歴史から引用したものです。そして、キャラクターを誇張して様式化したという点についてですが、やり過ぎはよくないと考えました。視聴者にはやはりキャラクターをリアルに感じてほしかったからです。そのため、そこは中国の歴代の君主がどんな生活を送っていたのかを調べて参考にしました。封建時代の君主というのは、日本もそうだったかもしれませんが、一般の民衆の感覚からしたら“変態”と言ってもいいものでした。彼らの生活はとても乱れたものでした。そうした混沌や暴力も歴史書や古書から学んで、楊広のキャラクターに採り入れてみました。たとえば、中国の魏晋南北朝時代の皇帝は非常に残忍だったそうです。直接人間の肉を食べたりといったこともありました。そういった歴史上の暴君の行動を参考にしてみたのです。
──楊広は父親の皇帝の前では優等生で、できる息子というのを演じているフリをしていたように見えたんですが、それはそれで彼の一面として演じていたのでしょうか?
このドラマの中で、楊広はいろんな場面で自分を偽って“演技”をしています。そして、その演技が下手だということが視聴者にもわかるように演じたいと思いました。彼の態度がウソくさいと感じる、演技が下手だと感じるように演じなければと思ったんです。こうしたドラマにおいて、演技の自由度はそれほど大きくないものです。脚本を読むと、どこを読んでも楊広は悪でしかないからです。でも、私はその悪の中でも境界線上にあるものをできるだけ表現したいと考えました。それが、楊広が“演技”をしている部分です。彼はいわゆる政治家ですね。政治家というのは政治におけるいろんな舞台で俳優のように演技します。実際、楊広が内面で何を考えていたのか、現代の私たちにはわかりません。私は楊広が政治家のように偽善的に振る舞うところを見せることで、彼の二面性を表現しようと考えたのです。つまり、これはある意味、カリカチュアですね。楊広は下手な演技を続けながら、自分の目的を次々と達成していくわけです。
──楊広は残忍にいろんな人物を殺しますが、中でも兄を殺すシーンが印象的でした。このシーンは視聴者に何を伝えたいと意識して演じたのでしょうか?
楊広は兄だけでなく父親も殺し、その他にも周囲の人間をたくさん殺します。これは現代の人にとっても、当時の人にとっても、想像しがたいことかもしれませんが、その時代においては、東洋でも西洋でも、宮廷においては珍しくない出来事だったでしょう。そのため、第一に、(兄を殺すということが)当時は日常茶飯事なことだったとわかるようにしたいと意識しました。彼にとって生存競争に勝つためには仕方のないことだったからです。第二に、歴史書から学んだことですが、楊広よりもさらに残虐な暴君はいくらでもいたのであり、これは暴君の残虐さを表したほんの一部に過ぎないということも示すよう意識しました。同時に、私自身、楊広がなぜこんなことをしたのか、彼の心の中をもっと深く探りたいと考えながら演技しました。実際のところ、楊広にとって統治者の座を手に入れるにはやるしかなかった、他に選択はなかったのです。そう考えると、このシーンは残酷なだけでなく、深い哀痛があります。彼の残忍さが示される一方で、彼の無力さも示されているからです。人として見れば、彼は非常に悲哀に満ちた可哀想な人です。物語全体を通して見ても、統治者である楊広は下の者から見れば非常に恐ろしい存在であり、同じ立場の者から見れば覇権を争うライバルですが、もっと高い所から俯瞰してみると、非常に憐れな人間であることがわかるでしょう。
──楊広は非常にやりがいのある役だったと思うのですが、ご自身は、英雄を演じるのと悪役を演じるのと、どちらが楽しいですか? また、やりがいを感じますか?
どちらも同じです。どんな役を演じる時も、ただ人間を演じるだけです。人間の多種多様な可能性を演じるということだけです。どんな人にも英雄の一面と、悪者の一面があるのではないでしょうか。誰でも強い部分もあれば、弱い部分もあります。つまり、俳優が役を演じる時も同じです。どんな役を演じるにせよ、それが「人間」であることに変わりはありません。ただし、どんな人間でもそれぞれ個性があります。役によっては悪の部分が多かったり、善の部分が多かったりしますが、悪あるいは善が100%ということはあり得ないのです。それゆえ、どんなキャラクターだったとしても、それがあなたにも、私にもなる可能性があるということを、私の演技から感じてもらいたいと思っています。今、あなたの中にある欲望や凶暴性がふくらんでいったら、将来、楊広のような人間になる可能性もあります。今、あなたがその善良性を努力して育んでいったら、将来、英雄になれる可能性もあります。私の演技を通して視聴者のみなさんには、美しい善なるものを求め、そうでないものに対しては警戒心を抱くようになってほしいと思います。それこそ、私が役者という仕事をしている目的でもあるのです。
──そういう意味では、現代劇と時代劇を演じるのは同じことだと思うのですが、時代劇の場合、悪役をもっと残忍に演じられるなど、何か違いはありますか?
いいえ。時代劇だろうと人間性は同じですから、違いはありません。ただし、何か違いがあるとすれば、それは美意識の問題だと思います。たとえば、時代劇なら、服装も違うし、習慣も違うし、話し方も違います。そういったものすべてをひっくるめて、美意識のうえでの感覚の差はあると思います。しかし、人間性に関して言えば、この1000年、大した変化はないと思いますよ(笑)。ただ、個人的には時代劇を演じるのが好きです。やはり、それも美意識の問題ですね。流行の歌謡曲を聴くのと、戯曲や日本の能楽を聴くのと、心理的、生理的な感じ方は違うでしょう。そういう観点から見れば、ご指摘どおり、違う部分はあると言えますね。現代劇が描く残忍さと時代劇が描く残忍さでは、視聴者が受ける刺激や感覚が違うということはあるでしょう。
──イェン・クァンさんは、あなたのことをどんな状態にも姿を変えられる「水」のように、どんな役でも演じられる役者だと評していました。あなたはイェン・クァンさんのことをどんな俳優だと思っていますか?
それは褒めすぎです。それこそ、全世界、日本でも、すべての役者が目指していることだと思いますが、私はまだまだそんな境地には至っていないと思います(笑)。イェン・クァンは完璧で美しい外見、顔、体の持ち主で、俳優に欠かせないすべての素質も備えている優秀な役者だと思います。そして、俳優にとって何より大切な努力もしています。彼はアイドルの資質もありながら確かな実力もあり、将来的にも無限の可能性を秘めていると思います。中国でも日本でもこれからもっと注目されてほしい俳優ですね。
──撮影現場でイェン・クァンさんとの交流はあったのでしょうか?
私とイェン・クァンの関係は面白いんです。彼は私を「水」に例えましたが、私が彼を例えるなら「火」です。このドラマの中で、私たち二人は「水」と「火」、つまり互いを敵とする犬猿の仲です。実は私たちは、ドラマの中で共演するシーンがひとつもなかったんです。私たちの身分は天と地の差がありましたから。彼は下々の者で私は皇帝。顔を合わせる機会なんてあるはずないんです、ハハハ(笑)。ただ、私のシーンの撮影が終わった直後にイェン・クァンが現場に入った時など、すれ違って挨拶を交わすことはありました。それに、現場で彼の出演シーンのVTRを見ることもありました。それを見ていると、たとえ顔を合わせることがなくても、彼からのプレッシャーを感じました。物語の上でも彼が力をつけてきて自分の地位が脅かされる緊張感がばんばん伝わってきましたし、彼の演技が非常にすばらしかったので、彼の演技からすごいエネルギーを受けたのです。例えるなら、お互いの間は幕で隔てられているのに不思議と心が通じあっている、そんな関係でした。
──このドラマは映画のような手法を使って撮影したということですが、これまでのドラマ撮影にはない経験はありましたか?
制作面でこのドラマは、撮影手法、機材、照明、制作管理など、すべてが優れていると感じました。こうしたドラマは最近の中国では増えつつあり、製作費をかけたクオリティの高い作品がどんどん出てきています。私はアメリカやヨーロッパ、日本や韓国のドラマなどいろんな国のドラマを見ています。特に日本のドラマはいろいろ見ていて、好きな作品も多いですが、ここ数年で、中国のドラマも制作方法や撮影方法が急速に発展してきました。ですが、ドラマ制作においてはそれだけでなく、もうひとつ重要なことがあります。これは世界的に言えることですが、多額の製作費を投じても中味が空っぽだったら、いい作品にはならないということです。今回の撮影チームは「隋唐演義」に思い入れのある人々が集まり、撮影からポストプロダクションまで、情熱と心を込めて取り組んでくれました。それが、このドラマが成功した最も重要なポイントだと私は考えています。
──フー・ダーロンさんは詩を書いたり小説を書いたり、作家業もやっていらっしゃいますが、俳優とは違う表現活動もしたいという欲求があるのですか?
そうですね。作家業と俳優業は、表現する言語が違うだけです。中国語を日本語に訳すのと同じことですね。ひとつの言語だけを使うのに疲れたり、他の言語に替えてみたいと思ったりする時もあるので、いろいろな言語を使って話しているといった感じです。20歳過ぎの頃は文章を書くのが好きでした。文章で自分を表現するのが幸せで、それが自然に感じられたんです。私は川端康成などたくさん好きな日本の作家がいるのですが、彼らの作品を読んで思うのは、文学に国境はないということです。音楽もそうですね。違う言語、違う音楽であっても、その中に必ず共鳴できるものがあるんです。これまで音楽だったり、書道だったり、それぞれの方法でその時の自分を表現してきました。今、俳優としては体と情感を使って表現活動をしていると言えます。いずれも表現方法は違いますがその核心は同じです。
──「隋唐演義」はご自身のフィルモグラフィーにおいて、どんな意義のある作品になりましたか?
お話ししたとおり、私は古代をテーマにした作品が好きです。以前も古代をテーマにした時代劇に出演して君主を演じましたが、それは正統な歴史に則したキャラクターでした。しかし、今回の役は古典文学の要素もありつつ、ある種、神話化されたフィクションの部分もあるキャラクターでしたので、自分のフィルモグラフィーの中でも特別で、有意義な経験となりました。それから、この作品が私にとって特別だったのは、やはり、琴棋書画や武術といった中国の古典的要素を採り入れたことですね。完全に歴史に則した物語ではないということで、そこはある程度自由にできる余裕がありました。中でも、剣舞を披露したことが私にとっては挑戦でした。この剣舞のシーンでは、漢代の3kgもある本物の重い太い剣を使いました。足を頭の高さまで振り上げるといった動作は、自分の歳を考えると二度とできないようなシーンですね(笑)。これまで私は武術と京劇を習った経験があるのですが、このシーンは中国の武術と演劇、さらに詩といった古典文化の要素を融合する形にしようと、1ヶ月ぐらい考えながら練習しました。ドラマの中ではたった数分のシーンではありますが、とても苦労しましたし、もう二度とこのようなシーンはできないと思えるほど頑張ったシーンとなりました(注:第27話の窦建德を脅すシーン)。この話をしたのは何も自分を褒めてほしいということではありません。日本の視聴者のみなさんに、こうした中国の古典の要素を採り入れた部分にも注目してほしいと思っているからです。
──ワン・リーコーさんと一緒に剣をふるうシーンはいかがでしたか?
(第27話の)剣舞は中国の古典文化に基づいた舞踊で、詩を吟じながら剣を使って踊っています。(第1話の)ワン・リーコーさんと一緒に剣を交わすシーンは剣舞ではなく、特撮やワイヤースタントを多用したアクションシーンになっています。彼女との共演シーンは多くはなかったのですが、これが一番印象に残っています。彼女は舞踏学院の出身ですが、剣を使った武術はほとんど経験がなかったようです。そのため、このシーンを撮る前にみんなで1時間ぐらい彼女に指導して、二人で動きを合わせられるように練習しました。彼女はとても覚えが早かったです。ああいったシーンは動きを合わせることだけが大事なのではなく、お互いの感情のやり取りを見せることも重要です。彼女からはいい刺激を受けましたし、期待どおりの表現を見せてくれて、互いに息の合った演技ができました。彼女はとても頭のいい女優さんだと思います。
──共演はこのドラマが初めてでしたか? 素顔の彼女はどんな女性ですか?
共演は初めてでした。実際には、彼女と交流できる時間はあまりなくて撮影でも2回しか会っていません。でも、現場で見た彼女は活発で、可愛いらしい女性でした。
──日本の視聴者に「隋唐演義」のここを見てほしいといったことがほかにもあれば教えてください。
このドラマは全くの古典というわけではなく民間伝承の物語なので、とてもわかりやすく、気軽に娯楽として楽しめます。英雄たちが戦うアクションシーンも多く、「聖闘士星矢」のように子供でも楽しめる作品です。日本の視聴者のみなさんもそういった軽妙で愉快な作品として楽しんでほしいと思います。また、中国の古典小説には共通した特長があります。荒唐無稽な作品であったとしても、必ず勧善懲悪、因果応報が描かれているということです。中国古典小説の作者が善良な心を持って書いているということも心に留めていただければと思います。
【フー・ダーロン(富大龍)】
1976年、甘粛省生まれ。8歳から映画に出演し、98年に北京電影学院を首席で卒業。07年、映画「天狗」で中国電影金鶏奨をはじめ3つのメジャーな映画賞で最優秀主演男優賞を受賞し、演技派スターの地位を確立する。主演ドラマ「神探狄仁杰前伝」では名探偵の狄仁杰を演じている。作家・詩人・脚本家としても活動するマルチ才人。
悪名高き暴君を倒すため、義で結ばれた英雄たちが起ち上がる!
「隋唐演義~集いし46人の英雄と滅びゆく帝国~」
【STORY】
開皇(かいこう)9年(紀元589年)、隋が全国統一を果たした。初代皇帝・楊堅(ようけん)の次子・楊広(ようこう)は、うわべは孝行息子だったが内心では皇位継承を狙っており、側近の宇文化及(うぶんかきゅう)や正妻の蕭美娘(しょうびじょう)とともに悪智恵をめぐらせて父王や皇太子の兄を暗殺。まんまと2代目皇帝の座についた楊広(諡(おくりな)は煬帝(ようだい))は淫蕩にふけり、外征や大規模な土木工事を繰り返した。世は乱れ庶民は苦しみ、各地で反乱の動きが起こる。北斉(ほくせい)の将軍だった父を幼くして失った秦瓊(しんけい)は、清廉な役人である一方、緑林の大物・単雄信(ぜんゆうしん)とも親しく交わる仁義の士。楊広の叔父で隋の功臣である楊林(ようりん)に見込まれた秦瓊は、かねて心を通わせていた楊林の娘・玉児(ぎょくじ)と晴れて夫婦になる。ところが楊林は父の仇だったことが分かり、衝撃を受けた秦瓊は楊林と決別。玉児から楊広の数々の悪行を知らされ、反朝廷の決意を固めるのだった。秦瓊、単雄信を筆頭に、羅成(らせい)、程咬金(ていこうきん)、徐茂公(じょもこう)ら志を同じくする46人の英雄好漢は瓦崗塞(がこうさい)に集結し、朝廷をおびやかす一大勢力となっていく・・・。
【CAST】
秦瓊:イェン・クァン(厳寛)
程咬金:ジャン・ウー(姜武)
羅成:チャン・ハン(張翰)
楊広:フー・ダーロン(富大龍)
宇文成都:チェン・ハオ(陳昊)
李世民:ドゥ・チュン(杜淳)
単雄信:フー・ドン(胡東)
楊玉児:ワン・リーコー(王力可)
蕭美娘:バイ・ビン(白冰)
単盈盈:タン・イーシン(唐芸昕)
李元覇:ワン・バオチャン(王宝強)
宇文化及:チョイ・シウキョン(徐少強)
【STAFF】
監督:ビリー・チョン
武術指導:グオ・ジェンヨン・シウキョン(徐少強)
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©浙江永楽影視制作有限公司
2012年/中国/カラー/ステレオ/原題:隋唐演義/全62話
発売元:ワコー/販売元:ポニーキャニオン
DVD公式サイト: http://zuitou.ponycanyon.co.jp/