昭和史研究の第一人者・半藤一利の傑作ノンフィクションを原作に原田眞人監督が完全映画化した『日本のいちばん長い日』
終戦70年の今、太平洋戦争集結の裏側で日本の未来を信じ、命を賭け戦った人々の物語に挑んだ今作は終戦記念日を控え、すでに高い注目を集めている。
8月3日(月)、外国人記者クラブ主催の試写会が行われた。上映後には10カ国以上150名の記者たちが集まる中、主演の一人である陸軍大臣阿南惟幾役の役所広司、原田眞人監督が登壇した記者会見が行われ、本作への思い、戦争への思いを熱く語った。
上映終了後すぐに行われた記者会見とあって熱気に包まれた会場。登壇者二人が登場すると、すぐに質疑応答に入った。
――原田眞人監督から英語での挨拶
原田眞人監督(以下、監督):この映画を撮った理由ですが、1945年、私の父がまだ19歳の頃、九州の最南端知覧で彼は塹壕を掘っていました。知覧と言えば、神風特攻隊が出発した空港があることで有名です。もしも戦争が続いていたら、彼も戦争の犠牲者となっていたでしょう。天皇陛下の聖断がなければ、彼は命を落として、強いて言えば私もこの場にはいなかったという思いをずっと抱いていました。
私の作品作りですが、やはり自分自身を信じること、誇りがとても大切であると考えます。家族と名誉をいちばん大切なものとして生きています。
――降伏することがほぼわかっていながら、これだけ会議に時間がかかったのは、当時のシステムのせい、日本の文化なのでしょうか?
監督:これは今の安倍政権をみてもわかるように国民性ですね。現在の国立今日競技場(オリンピック)の問題をみてもわかるように、今も続いています。
降伏が目に見えているということはなく、本土決戦まで戦わなければわからないという気持ちだったのは確かだと思う。もしも、多数決で決めたら確実にクーデターが起こることはわかっていた。最終的には天皇陛下のご聖断に持っていくわけですが、これは開戦のときにはできなかった。最後の戦争を止める時に天皇陛下、首相の鈴木貫太郎、陸相の阿南惟幾の3人の顔が揃ってはじめてできたことなので、これは時間が掛かって仕方なかったという気がします。
――今回の映画においての役作りは?
役所広司(以下、役所):この年になっても、俳優をやっていて役作りというのはどういうものかよくわからないです。ただ、今回も原田監督との仕事のときは膨大な資料を送ってきます(苦笑)それを必死に目を通すことから始まります。
今回の阿南大臣の役としては、いろいろな説があると思うが、天皇のご聖断があって以降は本土決戦ではなく、終戦に向かって、中堅の将校たちのクーデターを食い止めながら、なんとか戦争にピリオドを打てた。大臣として、天皇陛下と若い将校たちのとの間で板挟みになっての苦悩が今回の僕の役作りだったと思う。
阿南さんが本土決戦を主張している間に、広島・長崎に原爆が落ちてしまいましたが、昭和天皇と鈴木貫太郎総理と阿南さんでこの戦争にピリオドを打てたことは、本当に良かったと思う。
――天皇陛下を描くことについて
監督:『日本のいちばん長い日』は1967年に岡本喜八監督によって一度映画化されています。しかし、その時代には昭和天皇を描くことはできなかった。クローズアップはダメで、ワイド、ロングショットか背中姿のみでした。だから、原作では昭和天皇は明らかに主役の一人だが、細かなニュアンスまでは描けなかった。そういう時代がずっと続いていたのです。ですから21世紀になってアレクサンドル・ソクーロフ監督の『太陽』(ロシア・イタリア・フランス・スイス合作映画、日本公開は2006年)でイッセー尾形が昭和天皇を演じたが、これがはじめて昭和天皇がクローズアップされた作品で、前面にでてきたのです。
しかし、問題はこの昭和天皇の描かれ方が誇張し、風刺されたようなカリカチュアライズされたものだった。僕にとっては非常に不愉快な昭和天皇像の作品でした。
それでも、僕は初日に観に行きました。お客さんたちも非常に緊張していたけれど、実際には右翼からの攻撃とかなにもなかった。その時に今こそ『日本のいちばん長い日』が昭和天皇を主役の一人として描ける時代になったのだという気がしました。ただし、最後の24時間だけでは天皇のご聖断によって戦争が終わったのなら、どうして開戦の時にご聖断を下せなかったのかという疑問がでてきてしまうので、同じく半藤先生の終戦までの4ヶ月間、三者の関係を綴った『聖断』を一緒にすることで、終戦の決断がこれだけ遅れたことが理解できたと思った。
――今作は場所・人名など基本ベースで英語のテロップがついていますが、海外を意識してのことですか?また、どう感じてほしいですか?
役所:これは日本で起こった戦争を終わらせる話ですが、この映画で戦争を始めるのは簡単だけれど、終わらせることは本当に難しいということをシンプルなメッセージとして海外の方も受け止めてくれるのではないかと思っています。
監督:まさしくそうで、海外にこの作品を持っていこうと思い、テロップをつけています。もう一つはハーバート・ビックス(アメリカの歴史学者)著の『昭和天皇』が出版されてから、昭和天皇の歪められたイメージが一般的になってしまった。ことにウィキペディアなどの英語サイトでは、ハーバート・ビックスや日本の左翼系の学者たちが天皇の戦争責任を攻撃しているところをベースとして作っていて事実と違うとことがかなりある。ですから、こういうことを僕なりの考え方で是正していきたい。僕は右翼でも何でもないが“真実よりもイデオロギーを先行させる”という考え方には右であれ、左であれものすごく怒りを感じます。昭和天皇に今起きているこのことを少しずつ変えていきたい気持ちが強くあるのです。
――阿南陸相はなぜ辞任しなかったのか?
監督:まず、阿南さんが辞任していたら、この内閣は崩壊し、本土決戦になってしまっていたというのが事実でしょう。実はそこに僕がこの映画を描きたかった理由があります。
一番大きな理由は昭和天皇よりもむしろ阿南さんの抱えていたアンビバレンスです。阿南さんは、次男が戦死していることもあり、沖縄へ行って戦って死ぬことが希望だった。映画の中でも言っているが、彼自身、大本営直属の軍人ではない、天皇直属の軍人だと言っています。ですから何事も天皇第一で考えなければいけない、陸軍大臣を受けたときから昭和天皇の意向に沿って進むつもりである。しかし、自分の心は戦いたい、それを抑えなければならないというジレンマ。そこにドラマがあると思ったのです。その心理をヴィジュアルで描いているシーンがあります。一つは阿南さんが真剣を振るっている時にみる息子の幻影。それを彼の身体で隠してしまうところ。もう一つは阿南さんが軍艦マーチの影から聴こえてくる『 We’ll Meet Again 』を聴くところです。これは阿南さんの心のデュアリティー(二元性)を表しています。
役所:確かに昭和天皇のご聖断に従って、本土決戦を止めると言えば、クーデターを起こそうとしている将校たちに、ひょっとしたら殺された危険性もあったと思う。そうして、阿南さんが死んでしまえば、内閣はもう開戦になってしまいますので、昭和天皇の思い通りに終戦は迎えられなかったと思う。そういう意味で、阿南さんが大臣になったというのは青年将校たちには全面的な信頼があり、阿南さんなら当然、本土決戦をしてくれると思ったと思うのです。阿南さんたちがそういう軍人に育て上げた子供達なのですから。そこで、阿南さんがその若い青年将校たちを欺いて、終戦まで持ち込んだ苦しさは大変だったのではないかと思います。
皆さんは、映画を観ていらっしゃるので、そのあたりが伝わっていなかったら、僕は失敗したかな、、と思う(笑)
――アメリカだけでなく、中国との関係については?
監督:今回のこの映画では昭和天皇が草むしりをしながら「これは15年も続いているね。応仁の乱だ」というシーンがありますが、あれはつまり15年前というのは満州事変のことで昭和天皇はその時から日本の本土は中国を侵略しているわけですから、その続いている侵略戦争を終わらせなければいけないという意識もあったのではないかという気がしています。
昭和天皇、鈴木首相、阿南陸相の三者がどう思っていたかというより、これは中国戦線に行かれている小津安二郎監督への思いのほうが大きいです。
1937年に行っている小津監督が日記にも書かれているように、最前線に赴く日本兵たちはいつも酒臭い匂いがした。その2週間後に南京大虐殺が起きています。その後、帰国してから小津監督は映画作家として一躍伸びていきますが、結局戦争のことは語らず、最後に作ろうとしたものも、やはり兵士の日常で、戦争を大きな局面、国家的見地からは語られない苦しさがありました。
僕はその遺志を継ぎたいという思いで、小津監督の研究もしているし、それはこの映画のラストシーンにも影響しています。
この映画のラストシーンは昭和天皇が玉音放送を聞いている。あのお姿は戦争の責任を感じているという姿です。そのことに一言付け加えるならば、彼が考えていたのはabdication すなわち退位そのものだったのだと思う。
『日本のいちばん長い日』は8月8日(土)から全国ロードショー
http://nihon-ichi.jp/